■団体名称・・・・・堀留町一丁目町会【ほりどめちょういっちょうめちょうかい】
■代表氏名・・・・・町会長 永田 朗
■該当区域・・・・・日本橋堀留町一丁目全域
■町会事務所・・・・・東京都中央区日本橋堀留町1-8-9渡菊ビル5F TEL:03-3666-0488
≪町の歴史と由来≫
徳川家康は江戸開府と共に日本橋を中心に城下町の建設を進めた。東堀留川・西堀留川は日本橋川から分かれた2つの入堀になっていて、現在の本町二丁目あたりで止まっており、貨物・運送の便が大変良かった。そのため幕府はこの一帯に問屋町を作っていったが、その後この地域は江戸の繁昌を代表する商業地域へと発展していった。これが町名「堀留」の由来である。関東大震災後に西堀留川が、第二次世界大戦後に東堀留川が埋め立てられたが、現在の堀留公園は東堀留川の一部であった所であり、その川幅を今も想起させる。
江戸末期には、堀留を境にして北側が薬問屋、南側が木綿問屋街で江戸商取引の中心地となっていた。
尚、1679年の延宝図に「ほりどめ」の名が出てくるが、これが一番古い記録と思われる。
その後一貫して繊維関係織物問屋を中核とする問屋町として発展し続け、東京織物問屋同業組合が業界の牙城となっている。繊維取引について言えば堀留町を中心に近隣5町で日本の40%を占めており、この状況は最近まで続いていた。今でいえば高額納税者も数多く、明治以降の幾多の記録に残っている富豪の町であった。
今の堀留町一丁目は、昭和7年(1932年)の都市区画整理による町名変更のときにできた町名である。即ち旧町名の (1)堀留二丁目、(2)堀留三丁目、(3)新材木町、(4)岩代町、(5)新乗物町の一円と(6)葺屋町の一部である。
- ★新材木町は材木問屋が多かったのでその名がついた。
- ★岩代町は明治11年日本橋区が創設された時、区役所が置かれた。
- ★新乗物町は乗物を作る者が多く住んでいたのでそう称された。
- ★葺屋町は屋根を葺く職人が多く住んでいたのが町名の由来だが、芝居小屋が多く、賑わった町である。
- ★現在の堀留町一丁目一番地辺りは以前、東万河岸と言ったが、紀州頼宣の生母お万の方(家康の妾)に付与されたのでそう言われるようになったと伝えられている。
- ★「東海道四谷怪談」の作者、鶴屋南北は新乗物町の紺屋の倅であった。
- ★歌舞伎狂言「白木屋お駒」の実説は、新材木町の材木問屋白子屋お熊が起こした大事件をほぼそのまま狂言にしたものである。
- ★「鬼平犯科帳」には、度々当町内の旧名が出てくる。
堀留町一丁目は幾多の由緒ある歴史的記念物に彩られた伝統の町であると共に、江戸開府以来の商業の先進的かつ中心的地域であった。関東大震災では町は壊滅的損害を被ったが、第二次世界大戦では、近隣の地域は皆戦災を受けた中で、ほぼ戦災を免れることができた。
昭和30年代まではこのような状況が続いたが、その後問屋資本の相対的低下や繊維業における発展途上国の追上げなどによって、呉服・繊維業界は構造的不況業種となってしまった。残念ながら最近では有名な老舖の呉服商の大店を始め、転廃業もかなり出てきている。それに伴って都市銀行の営業網の撤退も相次いだ。
しかしながら大部分の在来からの老舗は時代に対応すべく努力し、町内及び近隣に本社を置く上場企業は数多く存在すると共に、3大取引所の一つである東京工業品取引所は堀留町一丁目に健在であり、商業の中心地である事になんら変わりは無いと言ってよいであろう。
・・・・・平成13年5月・・・・・